季節の特集
新潟県北部で古くからつづく、焼畑での赤カブづくり
沢をくだる水音と鳥のさえずりが聴こえてくる。
そこは山形県との県境にある新潟県村上市山北地区の山のなか。
この地に受け継がれてきた食文化を支える赤カブを、国内でも稀になった古典的な焼畑農法で栽培していた。
山とともに生きた先祖が到達した必然の農法を、共同作業で守りつぐ中継集落の人たちを追ってみた。
–text by ふうど編集室
村上市中継は日本海から内陸に8キロほど入った、中継川の中流域に位置する。周辺地域のなかでも広い田畑をもつ大きな山村である。川の両岸に連なる低い山の斜面は、手入れの行き届いた杉の人工林で埋めつくされ、自然の荒々しさも現代の喧騒も見あたらない。その昔、村の脇を流れる川が氾濫し、右岸にあった家の多くが川向かいの現在地に移転した記憶は、充ち足りた山村風景のなかに収斂されていた。
7月中旬、山焼きをする前の準備が始まっていた。現地を訪ねる前に、高校生の時から焼畑の手伝いをしてきた、この道50年の板垣孝一さんに話を聞く。「最初は作業が辛く嫌で仕方なかったのですが、全国で焼畑を継承する市町村が激減した現在は、山の暮らしを記憶する国宝級の貴重な文化財だと思っています」と胸の内を明かす。焼畑は多くの手間と重労働をともなうことから、共同作業で行われる。中継でも親戚筋にあたる数家族が一斉に作業をするが、赤カブ栽培の目的は自家用、農協への出荷、伝統食の継承活動など家庭によって、さまざま。そんなチームの代表格が板垣さんである。
そもそも焼畑は、どんなシステムなのか。「山林内にある杉の伐採地で、立地条件のいい所があると、その山の持ち主と話し合い、焼畑をするために伐採後から3年程の間無償で借ります。代わりに私たちは、荒地のようになった地面をきれいにし、そこを山焼きして赤カブを栽培します。火入れした畑は、草や病害虫の発生を抑えられ、植物の生育に必要な養分が生成され、肥料や農薬を使わなくても土壌改良ができるのです」なるほど焼畑は先端の自然農法だった。だがゴールは、もっと先にあった。「初年度の収穫が終わった畑に林業の専門業者が杉の苗木を植えます。次の年は、苗木が育っている畑で赤カブを栽培し、地力が衰えてきた3年目くらいで、その土地は畑としての役割を終えます。そして焼畑をした斜面は、次の伐採が行われるまでの期間、杉の生長を支える林として存続していくのです」。焼畑は森を再生し循環させる優れたシステムだった。
焼畑に適した条件は「斜面の傾斜が緩やかで、収穫物を搬出しやすい林道の近くであること。そして山焼きの際、水を大量に使いますので水を供給できる沢が近くに流れていること。さらに集落に近ければ理想的です」。これらの条件を満たす場所に、さっそく行ってみる。
山の奥でカーナビではわからないからと、奥様の順子さんが案内してくれる。車で10分ほど走り、現地に到着。そこは県道から逸れた林道の、さらに沢に沿って整備された狭い道の奥にあった。明るい県道から足を踏み入れた杉林のなかは、頭上を密集した杉の葉が塞ぎ、薄暗くジメジメし深山幽谷にいきなり紛れ込んだようだった。「ここです」と言われても、杉の木立しか見えない。道より高い位置に伐採地があるらしいのだが、わからない。入り口らしき坂を登ったが、足元に転がる原木や地面の起伏ばかりに気をとられ先に進めず、ここが山の一部であることを知る。腐蝕した黒い枝が積まれ小山のようになった塊が視界を遮り、にわかに全容が見えない。喘ぎなら進み、ようやく焼畑予定地の全体を見渡せる位置にたどり着く。そこには三方を杉の立木で囲まれた山肌が、夏草と切り株のシミを点じ夏空の下で裸身を晒していた。
3人の女性が思い思いの場所で、作業している姿が目に入る。順子さんも、鉈・鎌・ノコギリを身につけ作業に加わり、軽快に動き出す。一昨年の冬、「焼畑は地拵えという山焼きをする前の仕事が、ほんとうに大変なんです。長い間に堆積し分厚い層になった杉の葉や枝下ろしした枝を取り払い、地面が見えるようにするのですが、炎天下での作業で、蛇やマムシも飛び出してきて、ほんとに難儀なんです」とこぼしていた順子さんが、いま目の前にいる。その動作は敏捷で無駄がなく、長年の経験で鍛え抜かれた高い身体能力を表していた。
作業の合間、順子さんの実姉にあたる小田ユキさんに話を伺う。「昔は焼畑で、いろいろな野菜を作りましたよ。ジャガイモなんかは大きく、西瓜や苺もほんとに甘くてね。普通の畑のものと比べ物になりませんでした。やっぱり灰が肥料になるんですね」。
これから20日ほど地拵えの作業を続け、積み上げた木々を乾燥させてから山焼きの日を迎えるという。
8月7日晴れ。山焼きの日が来た。火入れは午後1時。無風になる時刻を予測し、ギリギリに下した決断だ。
作業に参加する人が次々に集まり、総勢20人ほどになる。そのなかに板垣さんの家族三代がいた。息子の真さんは「農業と林業と両方にメリットがある合理的で貴重な農法ですので、大切にしたい」と話し、高校生のお孫さんは「大変だけど、みんなが協力してやるのが、いい」という。そして板垣さんが「これが終わるまで、新型コロナも東京オリンピックも、ないですよ」とふと漏らす。その言葉から、これから始まる山焼きへの怖れと緊張感がひしひしと伝わってきた。
メンバーの役割分担を最終確認した後、ほぼ全員が斜面の最上部をめざして登り始めた。
さあ、いよいよだ。
荒ぶる炎と人間のせめぎあいは、その場に宿る山の神への敬虔な祈りから始まった。
中継の鎮守さまである川内神社から神威を託された御神酒と塩を、火入れの責任者である菅原進吾さんと菅原清勝さんが、杉林と焼畑の境にある巨大な杉の切り株にお供えし、山焼きの無事を祈願した。続いて種火を手にした2人は斜面最上部で横一直線に画された場所に、次々に火を入れていく。しばらくして火が勢いづき、炎の列が斜面を下り始めた。
山焼きは、一気に燃え広がる危険を避けるために、斜面の上からゆっくり焼きながら、火を下におろしてくるという。杉林と伐採地の境目には、2メートルほどの防火帯を設け地面を十分に湿らせてある。火のスタートラインより上にある急斜面の杉林では、長いジェットホースを持つ人や、水の噴射機や携行用の水袋を背負う男性たちが待機し、上方に向かおうとする火の粉の消火に当たっている。
それにしても上昇する炎を、どのように下に向けさせるのか。その秘訣は、地拵えの際に積み上げた枝の小山の配置にあった。伐採地の中心線に一定の間隔で燃えやすい小山を築き、火が移りやすい道をあらかじめ築いていたのだ。
さらに火を操る奥義を見せられる。猛火の塊が勾配を緩めた斜面の中腹に降りて来た時だった。みんなの動きが急に慌ただしくなる。「両端をもっと下げろ!」という声が聴こえてきた。すると、いかにも経験を積んできたであろう人たちが燃え盛る炎に近づき、長い棒で炎の先端を移動させたり、燃えやすい木々を焼べ始めた。それまでほぼ横一直線だった炎のラインを弓なりにカーブさせる、ということらしい。後で、その理由を消防署の職員だった菅原進吾さんに聞いてみた。「火はとても正直な生き物です。炎は中心部分がより高温になり、自ら発する熱で上昇気流を起こし暴れます。それを防ぐために、炎のラインにカーブをつけ、火力を分散させたのです。火は外から煽られる風も中から自然に起こる風も、怖いのです」。
火入れから2時間ほどが過ぎた頃、風もなく山焼きが順調に進んでいる様子に安心したのか、みんなの顔つきが柔らかくなってきた。最初から切り株に腰を据え、作業の成り行きを感慨深そうに見上げていた菅原又雄さんに話を聞いた。菅原さんはチームの最長老である。「子供の頃から焼畑をやっていまして、ここらあたりのほとんどの山で焼畑をしました。遠いところで、峠道を5キロほど歩いて中津原の方まで行きましたね。作った野菜は、赤カブ・大根・白菜など。自然の力だけで育ったものは違います。前の年に収穫した大量の赤カブを漬け、翌年の7月頃まで毎日食べています」。
日が傾き始めた頃。赤々と燃えていた斜面の大半が灰に覆われ、あたりに煙が充満し、山焼きが終わろうとしていた。それでも大勢の人が、長い棒を手にまだ熱い地面を踏み何かを探している。灰の下に埋み火があるそうで、それらを丹念に点検しているという。
そして夕方4時。予想より短い時間で焼き上がった山の斜面を前に、「今日の出来は、万々歳!」と喜びあいながら参加者が三々五々引き上げていく。その後には、山人の悠久の知恵が刻まれた神々しい景色が、静かに横たわっていた。
それから9日を経た日、赤カブの種蒔きが行われた。灰色だった山肌は、黒みをおび、焼け残った切り株の芯だけが業火を記憶している。この日も多くのメンバーが集まり、3分割された区画ごとに、種を蒔く人ひとりに対し、その背後を大勢の人が列を組み、種を土に鋤いていた。焼畑は畝を作らず、畑のありとあらゆる場所に種を直播する。大きな切り株の根元、凹凸のある斜面、倒木の下などにも、芥子の実のような小さな種を振り蒔き、その上に熊手で軽く土をかぶせていく。サクサクと熊手が土を掻く心地いい音が、秋めいた空気のなかを伝っていた。
11月初旬、収穫風景を見せてもらう。通い慣れた道の両側は、すっかり黄色や赤に衣替えしていた。
久しぶりに見る山の斜面は、葉の海に変わり、思わず感嘆の声をあげる。近づいて根元を見ると、艶やかな赤紫のカブがぎっしり。太陽と土の養分を独り占めし才能を開花させた植物の命の煌めきが、畑を埋め尽くす。まるで宝石の山だ。一瞬にして、中継の人たちが焼畑の地力を絶賛していた言葉を実感する。このすべてが漬物にされ、野菜の少ない冬場の食生活を支える。
1本1本抜きとった赤カブを、その場で葉と根を切り籠に入れていく。約2時間で20キロ入りの袋が8個になった。それらを畑から下ろし、ビニールを屋根代わりにした作業場で水洗いする。急な土砂降りの雨に動じることもなく、その場にいる大勢の人たちがお互いの動きを察し、忙しく立ち働く。素晴らしいチームワークである。そして予想を超える豊作の喜びで、女性陣のおしゃべりが止まらない。「去年は収穫量が少なくて自分の口に入らなかったけど、今年はたっぷり楽しめる」と嬉しそうな小田ユキさん。板垣順子さんも「地拵えの時は、こんな思いをしているんだから、赤カブを人にあげたくないと思うけど、これを見るとみんなに自慢したくなるね」と話しながら、冷たい湧き水のなかで手を動かしている。スパイク付きの地下足袋を履き、いかにも山の達人らしく見えた菅原清勝さんは、「夏の暑い時は苦労しますが、知り合いに送ってやり、〈美味しかったよ〉と言われると、嬉しくなります」と満面の笑顔をみせた。
その日、頂いた生の赤カブを知り合いに漬けてもらった。1週間ほど甘酢に浸したものを食べて驚いた。
カリッとした歯ごたえとともに、山の生気が口いっぱいに広がり、いままでに体験したことのないピュアな味がした。中継の人たちの真摯な働きに、天が与えた勲章のように思え、しばし言葉を失い涙が伝う。魂に響く衝撃的な味だった。
村上市役所山北支所によれば、昨年は中継を含む10数か所で焼畑が行われたという。件数が減少したとはいえ、現代農業とは真逆な焼畑が、なぜ健在なのか。もっと知りたくて旧山北町のエリアを管轄する村上市森林組合を訪ねる。
意外にも事務所は、日本海に面した府屋にあった。廃校になった小学校の教室を改装した事務所は、無垢の杉材がふんだんに使われ、木の温もりに満ちていた。組合長の板垣茂樹さんが、白木の杉で支えられた透明板の向こうで、話しはじめる。
「焼畑は耕地のそんなに多くない山地では、昔から全国的に行われていたもので、特別なものではありません。ただ江戸末期に造林が始まった当地では、人工林を伐採した後の地面を再生させる役割を焼畑が担ってきました。山焼きをする前の段階で、一回表土を出すため、土地の植生が変わり、下草を刈る手間も省けます。逆に焼畑をしない伐採地は、残材があり、下草も生えていますので、植樹する前にそれらを整理する手間がかかります。でも焼畑をすれば、その手間が省けます。このように焼畑の生産者と森づくりをする林業家と、双方にメリットがあることから、伐採〜焼畑〜植林がひとつのサイクルになり何十年間かのスパンで繰り返されてきました」。
山北とおなじように焼畑文化が根づいている山形県温海地方も、林業の発展が背景にあるという。ちなみに山北と温海は、おなじ山域にあり地形も地質も変わらないそうだ。
山北地区は、森林面積に占める人工林の割合が約9割にのぼる。そのほとんどが私有林。それだけ地域に熱心な林業家が多いことになるが、どうしてだろう。「山林資源に恵まれた山北では、昔から自生する広葉樹を伐り、製塩の燃料になる塩木や薪に加工し生活を支えてきました。
そして江戸末期には自然採取的な林業から、杉や檜の苗木を植え森を守り育てる造林業が始まり、建築用の木材を県内でいち早く供給した歴史があります。その後、明治期から大正にかけ、林業地としての可能性を当地に見い出した篤林家が次々に現れ、先駆的な取り組みが行われます。その代表的な人が富樫長吉翁で、この小学校の校庭に功績を刻んだ顕彰碑が建てられています。子孫のために長い時間をかけ森を守り育てるという愛林思想は、地域住民のなかに自然に受け継がれています」。
では林業家は、山北のどこに将来性を見い出したのか。
「林業に適した立地と地形です。海の近くに低い山が連なり、夏は高温で、冬は豪雪地ほどの積雪はないことから、杉の生育に適した自然環境があります。その一方で、木材の搬出や運搬に便利な川や港が近くにあり、大量輸送の便が良かったからです。大正期には鉄道が開通し市場は全国規模に拡大します。こうした輸送ネットワークの整備が、林業の発展に拍車をかけました」。ところで山北産の杉の特徴は? 「ほかの地域では成長に100年くらいかかる大きな杉が、ここでは60年くらいで同じ大きさになります。雪害を防ぐために木と木の間隔を広くしているので、木の生長が早いのです。その結果、年輪と年輪の間隔が広く、色白のきれいな木肌になります。また雪のなかで育っているので弾力があって剛いことも特徴です」。最後に「木は1本1本に個性があります。それぞれに優劣があっても、〈世界でひとつしかない〉という点で価値があります」と語る。
風土の必然から発生した焼畑と杉林の循環は、休閑期の山地を有効に使いながら、山の地力を再生し続けてきた先人たちの知恵を物語っていた。同時に山焼き前の神事を行うことで、人間が自然の奥に分け入る時の心構えを子孫に伝えていた。一見縄文的とも思われる焼畑農法。それは郷愁ではなく、むしろ未来につながるスーパーテクノロジーだった。
<このコラムは株式会社タカヨシの広報誌「ふうど」2022年冬号 第55号 悠久の記憶 を元に作成しています。「ふうど」についてはこちら>