多くの新潟県民の心に染みついている「笹だんご」。
手間暇を惜しまないひと包みは、小さな存在にもかかわらず、
現代の空気を一瞬にして和らげ、田舎の風景と匂いを連れてくる。
もちろん新潟を代表する大名産品。日本列島でも新潟県の中越・下越地方と福島県の会津地方の一部地域だけが「笹だんご文化圏」。
新潟県の分布域が圧倒的に広い。なぜ新潟県と「笹だんご」なのか。
その謎を知りたくて、大勢の人たちの記憶を道しるべに時の旅に出る。
–text by ふうど編集室
笹だんごは、新潟で古くから伝わる郷土食である。ほんのひと昔前まで、家庭で作られ家々によって味が微妙に味が違う母の味だった。商品として笹だんごを買う時代になったいま、その記憶が薄まりそうである。そこで手づくり時代を知る人たちの声を集めてみた。それは庶民の小さな歴史だけれど、長い歴史が途絶えることなくきた笹だんごの謎を解く鍵になる貴重な時代の証言だった。
まず戦中戦後に少女時代を過ごした人の思い出。町なかでも味噌や焼き干しなどを自家製していた時代を知る年代。
「母と、西蒲原の母方の祖母が笹だんごを作ってましたね。それぞれの家庭で、もち米の粉とうるち米の粉の割合が違っていたようですが、母のものは捏ね方に工夫があり、生地を寝かせる時間もとったので笹がスルッと剥け丸二日間は柔らかでした。よもぎの新芽がたっぷり入っていて、おいしかったですよ。母が笹だんごを作る時間は決まって真夜中。朝起きるといつの間にか、台所の一画に渡した竹棹にたくさんの笹団子の束がぶらさがり、笹の香りが家中に満ちていました。その匂いだけで嬉しくなりましたね。一年に一度、笹だんごができた日は学校から帰るのが楽しみで、おやつとして一日で十個も食べてましたね。作る数は、三百個ほど。なにしろ七人兄妹でしたから、みんなのお腹を満たすには、それだけの数が必要だったんですね。母のものは餡だけでしたが、祖母は甘辛のおかずを入れたものも作っていましたね。胡桃や人参を入れて炊いたアラメ、きんぴらごぼう、しょっぱい糠いわしの刻んだものと三種類の具があり〈男だんご〉といいましたね」。
嫁ぎ先では笹だんごを作らなかったが、勤め先の会社では「毎年、月遅れの端午の節句になると従業員が餡を煮て笹だんごを大量に作り、それを市内や得意先企業や料亭に配ってましたね。東京にも郵便小包で送ってました。そして大晦日になると得意先の建設会社の社員が自ら餅を搗き、出来立ての餅を届けてくれたものです」。
なんとも長閑で心のこもる義理堅い風習が、昭和四十年代まで新潟市の中心部で取り交わされていた。
次に戦争を知らない世代の話。昭和三十年代、日本が大国をめざし高度成長の階段を駆上がろうとしていた頃。
「長屋が向かいあう小路の何軒かは、初夏の同じ日に笹だんごづくりをしていました。黒い板塀からガラス戸を開け放った暗い室内を覗くと、部屋いっぱいに吊り下げられた笹だんごが白く浮き上がり、非日常的な不思議な光景でした。私の家は笹だんごを作らず、もっぱら隣近所からのお裾分けと田舎の本家から戴いたものを食べていました。
一方、米づくりと果樹園を営む本家は、田植えが終わった後に手伝ってくれた人を労う〈さなぶり〉の時や、寺の祭りがある日に笹だんごと粽を沢山作っていたようです。農家にとって、田植えを無事終えた喜びを、故郷を離れた分家や親戚筋と分かち合い、ともに一年を息災に過ごしたいという願いを笹だんごに込め、忙しいなか手間を厭わずに作り、その大半を配って回っていたんですね。そんな風習の意味を知らない子供は、ただ笹だんごが届く日を楽しみにしていました。親たちにしてみれば、夫婦それぞれの母の味を懐かしむ仕合せな一時だったんでしょうね」。
少女が社会人になったころ。「小路から笹だんごの風景は消えてしまいました。でも一軒だけ、五月から七月にかけ時々笹のいい香りがしてました。その家のおばさんは、笹だんごづくりが上手い人で、近所や知り合いに頼まれて笹だんごや粽を作っていたようです。母も東京の親戚に送る時、よくお願いしていました。実際に食べてみると、笹離れがよく小豆の風味が残り名人の味でした」。
さらに時代が下がった昭和四十年代。高度成長期の好況に湧く、ある地方都市の家庭のひとこま。
「母と姉と祖母と陽の当たる縁側で皆で笹だんごを百個ほど作りました。始めは面倒くさいなあと思いながらも、いつの間にか熱中して、早さや出来映えを競ったものでした。最初はパサパサして固い団子の粉を力を込めて練ってゆく、逞しい母の姿に尊敬の念を抱いたりもしました。今は祖母も母も亡くなりましたが、笹だんごづくりは、いい思い出です」。
他に、少年が母親と手をつないで笹やもち草(よもぎ)を採りに行った時の情景。完成した笹だんごの笹がスルッとむけた瞬間「成功」と声を弾ませた母の表情など、あえて人に話すほどではないが、心の奥に鎮めた家族の小さい歴史があった。
この穏やかな記憶の連続が、時を超えてきた笹だんご文化の奔流なのだろう。上杉謙信が兵糧食として考案したという説をとるならば、四百年以上が経つ。ただ残念ながらこの説を実証する資料は、まだ、ない。
わたしたちが先祖から受け継いだ笹だんご。百年後、この地で暮らす人たちもいまと同じように一枚一枚笹をむき、団子を頬張るとしたら…、想像しただけでワクワクするロマンを持ち、笹だんごを製造販売している企業がある。新潟市の田中屋本店である。
「先人の暮らしの知恵の結晶である笹だんごが、何百年もの長い間、家庭で作られきたのですから、百年後は商品としてではなく、家庭の食べ物として残したいです」と販売部長の田中幸江さんのまなざしは、遠い未来に向いていた。
その願いを実現させるためにも、伝統的な製法を守り、厳選された良質な素材を用い誠実に笹だんごを手づくりしている。昔の本当の味を守ることが、未来に伝わると信じている。
「笹だんごは日が経てば、固くなるのはあたりまえです。でも蒸し直せば柔らかくなります。一週間も柔らかいのは何か化学的な添加物が入っているからで、わたくしどもは添加物は使用せず、昔と同じ自然の素材だけで製造しています。笹は防腐効果がありますから、団子が固くなることはあっても腐りにくく、日持ちがいいことが笹だんごの特徴です。昔の人は凄かったですね。笹の効用をよく知っていて暮らしに活用していたんですから。でも笹を巻くのは難しいんですよ。ここで毎日、従業員が団子を笹でくるみ、スゲで笹を巻いていますが形よく仕上げるには、相当の技術が必要です。この道五十年の超ベテランが巻いたものは、笹だんごのお腹の部分が、いい按配に締まり、ふっくらして愛らしいです。スピードも速く、二十秒ほどでパパっと巻きますね」。
その職人さんは、蒸し上がった時の団子の大きさを想定してスゲを縛るそうだ。手づくりであっても製品となると、ある程度の均一性が求められという。ちなみに一個の団子の重さは秤で計量するのではなく、手の感触で量る。すべてが二グラムの増減に納まるという凄腕揃い。
「わたくしどもは商品としての笹だんごを売るというより、本当の味と越後の風土のなかで庶民が磨いた文化を伝えたいと思っています。生産性という点では効率が悪い面もありますが、商売は目先のことばかりではありませんから」。
田中屋本店は昭和6年創業、主力商品の笹だんごの他、いろいろな餅菓子・赤飯・おこわなど昔ながらの味と品揃えを守り、地域に親しまれている。
笹だんごへの想い入れは強く、新幹線の開業当時、市内で初めて新潟駅の名店街で笹だんごを実演販売し、蒸篭から湯気がもうもうと上がるシズル感が評判になり、笹だんごが全国的にヒットするきっかけを作ったといわれている、伝説の企業である。
そして平成19年、新潟西港が眼前に迫る場所に、笹だんごをもっと知ってもらう機能をそなえた「みなと工房」を開店。店内のガラス越しに製造現場を間近に見られ、二階のオープンフロアでは予約制で笹だんご講座を開講している。
「笹だんごの由来や特徴のお話、笹だんごづくりの体験を通じて、郷土の誇れる名産品を肌で感じてほしいという気持ちで工房を始めました。オープン当初は、こんな人通りのない場所ではお客さまが来ないのではと周囲から心配されましたが、やすらぎ堤から港側への遊歩道が整備され、ウォーキングや町歩きをする人が立ち寄るようになり来客数が年々増えています。」
「講座は去年一年で百五十回ほど、約二千五百人の方々が受講されました。小中学校の総合学習、町内会のこども会のイベント、小グループの体験旅行などで利用していただいています。自分で作った笹だんごをお土産にできると県外のお客様などは、大変に喜ばれますね。
また小学生に〈昔の人は、くず米でも大切にして団子にして食べたんですよ〉とお話すると、〈これからは好き嫌いを無くしたい〉と感想を戴いたり、笹だんごの特徴や魅力がじわじわと広がっていくことを実感でき、嬉しいですね」。
話が終わり工場へ。ステンレス製の引き戸を開けた途端、湯気とともに笹とよもぎの香りを浴びた。「あっ!これだ!この匂い」と思わず声をあげるほど、強烈に故郷にひきずりこまれる。遠い昔から越後の母子たちが嗅いだ同じ匂い。時をまたぎ、いまは亡き祖先と厳しい労働に明け暮れた普通の先人たちと一体感を持てる幸運をしみじみ感じた。笹だんごの力は本当に凄い。
六月、旧暦の端午の節句を迎えるころになると、山ではチマキ笹が青々と茂り、よもぎが若葉を広げ、里の人たちを迎える準備を整えて待っている。
里では水鏡になった広い田んぼに、早苗がそよそよと春風になびいている。農家の母さんたちは、これから訪れる節句や村祭りのための、ご馳走づくりの準備にとりかかる。山に行き、よもぎや笹を採り、家では団子粉、餡、スゲなどを用意する。一晩で少ない家で百個、なかには数百個も作る家もあり、それが行事のたびに何回も作られるのだから下準備も大忙しだ。
毎年六月の声を聞くと、こんな田舎の光景が、笹だんごをつくる中越と下越の空の下に広がっていた。全国で伝統的な笹だんご文化があるのは新潟県と福島県の会津地方に限られ、新潟の分布エリアが圧倒的に広い。どうして新潟だったのか、素朴な疑問がわく。
食文化研究家の丸山久子さんは「笹だんごの材料にする、よもぎやチマキ笹がちょうど摘みごろになる時季と、田植えシーズンを終え、慰労のためにご馳走を食べる時期が重なったからです」。意外にシンプルな答えに次の言葉が見つからない。
「昔の田植えは重労働で、大勢の人の協力がないと出来ませんでした。田植えが終わると手伝ってくれた人を招き慰労する〈さなぶり〉という風習が農村にありました。この日は、みんなでご馳走を食べるのですが、地域により若干異なりますが、お膳に笹だんごがつき、それはその場で食べ、別にお土産用のものが用意されていました。甘い笹だんごを食べ農作業で痛めつけた身体を癒したのです」。
確かに疲労回復に甘いものは最適だ。それと農村の共同体意識を強める意味でも、笹だんごは大事な伝統食だったのだ。
「その他に旧暦の端午の節句、村の祭礼など、行事のご馳走として笹だんごが作られ、神さまとご先祖さまに感謝を込めてお供えし、無沙汰している親戚や遠くの子供たちに送り、お互いの安否を確かめあう贈答品としての役割も担いました」。
ちなみに県内でも佐渡や上越は笹だんごを作る風習がなく、中越・下越でも笹の包み方やスゲの結び方、呼び方が異なる地域がある。またよもぎではなく、腰の強さや香りの異なるゴボウパ〈おやまぼくち〉を好んで練り込む地域もあるという。
では、いつごろから食べられていたのだろうか。「断言はできませんが、ほどほどに古い時代からだと思います。戦さの時は笹の防腐効果で日持ちがするので重宝したでしょうし、ご馳走としても、田んぼや山仕事の弁当としても日持ちがして便利だったでしょう」。
笹だんごの原材料は餡に使う砂糖以外、いつの時代でも入手できる天然物。蒸篭と石臼さえあれば、大昔でも作れたはず。とすれば時代はもっとさかのぼるのではと妄想が膨らむ。いずれにしても笹だんごは、新潟の風土と先人のコラボで生まれたスローフードなのだ。
三月の連休前の夕方、新潟駅に行き現代の笹だんご事情を調べてみた。新幹線のコンコースでは「笹だんご」の幟があちこちに立てられていて、嫌でも目を惹いた。
お土産品店の店頭には、県内最大手の米菓製造会社や全国規模の製菓メーカーが開発した、新潟限定の笹だんご風味のお菓子が艶を競っている。これにはちょっとビックリ。そんな時代なのかと寂しいような、嬉しいような複雑だった。そこへ旅行客風の若い女性が立ち止まり迷っていたが、結局、単品の笹だんごを買った。いまは一個売りが普通になっている。
毎日出店しているという農園の笹だんご店の販売員は、今日も売れましたとホクホク顔。駅の名店街では四店舗で笹だんごを販売し、それぞれに繁盛していた。それでもやっぱり田中屋本店に買物客が集中していた。
旅行客、サラリーマン、地元の年配者や親子連れなどが次々に笹だんごの販売コーナーの前に立ち止まり、店員は息をつく間もなくお客様の対応に追われていた。改めて笹だんごが新潟のお土産品のトップであることを認識した。わたしたちの目には見慣れていて、あたりまえにしか映らないが初めて見る人には強烈だろう。いまどき、すべてが天然素材。しかも、ひとつひとつがスゲで丁寧に縛られている。この丹念な仕事ぶりを見るだけで心がほぐれるにちがいない。
伝統的な食文化が時代に押し流されそうな現代にあって、いまなお健在ぶりを示し、ますます魅力を発している笹だんご。この幸運な歴史に、庶民の歴史が重層し、誰もが温かい想いを秘めていることを忘れないようにしたい。
<このコラムは株式会社タカヨシの広報誌「ふうど」を元に作成しています。「ふうど」についてはこちら>